おやじの蘊蓄
長良川鵜飼との出会い
昭和40年3月末に長良の安藤氏より鵜飼屋にて船外機を使いたい希望があると連絡が
あった。
長良の漁師の使用する舟は両艫の舟であり、特に鵜飼舟はその性格上、舟を切断して
船外機を装着できる構造は許されない状況であった。鵜舟は川上に向かっては艫が先
となり、漁をしながら下る時は舳が先になって、「かがり」の下で鵜が漁をすると言ふ
使用をするものである。
実際に鵜舟に船外機を装着するに当たっては種々の条件を満足しなくてはならず、
難しい問題であった。その条件は
(1)下りは外すので格納し易いこと
(2)成るべく軽量であること
(3)船外機の振動が吸収され舟に伝わらないこと
(4)装着が容易であること
(5)その他
色々考えた揚句、船外機は舟の横に取り付けて走らせてみようと、長良に行った。
山下順司さんの舟を借りて取りあえず、走行させた。
横向きに取り付けても使用上は支障のないことが判ったが、何せ鵜舟は舟板が比較的
薄い、之等を満足すべく船外機側に2ヶ所、反対側に1ヶ所治具を固定した。
船外機側に直進方向に対して直角にパイプを取り付けて、このパイプより稍細いパイ
プを通し、その反対側で小縁に固定する3点支持のものを考案し、2点支持の中央に
船外機取付のプレートを設置した。
大体使用可能なものを作り、6軒の鵜飼屋に満足する治具を作った。
鵜舟を船外機で上流に上る様なことは伝統ある長良の鵜飼では、その風情を打ち砕く
ようなものと思い、鵜飼の本家である山下鵜匠の家ではこのような画期的なことは
やられんものと考えた。所が山下善平氏の弟である克郎氏は大の乗り気であった。
6軒の鵜飼屋の中で山下家のみは長良川の上流であったがため、漁を終えて自分の舟着場
に帰るときにも船外機を使った。それだけに治具は他の5軒とは異構造のものにした。
先ず一般使用可能と思われる治具を制作した。
5月11日は鵜飼初めである。当日使用可能にしたのは両山下家、杉山要太郎家並びに
杉山治典家の4台であった。杉山与市家は自信がなかったのか1日遅れて納入したけど
杉山旗夫家は操縦する人が居ないからと発注がなかった。
一応5台は毎日使用するので、色々心配があってそれから殆ど毎日鵜舟が出発する頃
になると長良前へは行っていた。僕はペレー帽を着用していたので鵜飼屋さんは用事
があるとベレー帽を探したらしい。
1週間ほど経ってから杉山旗夫家から電話があり船外機を納めてくれとの事だった。
既に用意してあったので午前中に納めて午後から試運転に行くと伝えたら、電話あり
「午後3時すぎにきてほしい。」
当日1時から鵜飼屋の大本締の山下幹司氏の葬儀が執り行われて迷惑をかけるから
との事だった。
鵜飼屋が買って呉れたら長良の漁師から注文があった。鵜飼屋には2.3人がいたが
漁師は1人だけである。船外機を装備しても舳先には誰もいない。仕方がないので僕
が慣れぬ手つきで竿を握り舳先に立った。何せ河一杯の巾を使って操るので舳先で
方向を修正しなくては直進が出来ない。郡上の山奥育ちの僕は舟を漕いだ事はないので、
何とか竿を覚えたいと思った。杉山与一さんが家に居られたので竿談義を聞いた。
1回や2回話を聞いた位では判るものではない。誰かに指導して貰うべく考えた。
鵜飼舟が出発して帰るまでは時間的余裕があったので、山下家を訪れて幹司氏の奥さん
に色々なお話を聞いた。
先ず驚いたのは冒頭「源の義朝がネ」と源平盛衰記から始まったことだ。
保元、平治の乱に破れて関ケ原に来た時、息子一人が亡くなった之を葬ったのが青墓
で此処を義朝が出発するに際し、鵜飼屋が鮎のナレ寿司を作ってこれを持たして送り
だした。義朝はその後知多半島の野間にいたり、反逆者に殺された。
後に源の頼朝がこの事を知って鵜飼屋が父義朝を丁重にもてなしてくれた事を喜び、
金・銀の壺を贈ってくれた事が熱田神宮の社歴簿に記載されているそうだ。
織田信長が岐阜城を攻めたとき鵜飼屋に舟を貸すように頼んだが山下家の先代は、
自分達の御主君は斉藤竜興でありそれを攻撃している敵方に舟を貸すことはできぬ
と断ったらしい。信長軍は山下家に目張りをして火を放ったらしい。
戦いが終わって、信長から呼び出しがあった。先代はテッキリ断罪と決めつけて登城
したところ、
「俺は今日からこの城の主である。城主の命令は皆従うか」
と言われ
「御領主さんのお言葉には文句なく従います」
と返答すれば信長は
「貴様は気骨のある奴だ。今後山下と名乗れ。鵜匠頭として名字、帯刀を許す」
と言われた。
本来安藤性を名乗るべき系統であったが、爾来山下と名乗り今日に到っている。
又信長は山城の国井手と言う所から河鹿を捕らえてきて、鏡岩で放流した長良川で河
鹿が鳴くようになったのはそれからである。
信長の句に
「山城の井手の蛙や鏡岩」
とある。
信長は又、椎の実は兵糧になるからと居城の山に椎の木を植えた。椎の花は春先にな
ると黄金色の花を咲かせるので”金華山”と呼ぶようになった。
何せ鵜飼による漁は1時間に60匹の漁獲量があるので、釣りよりも網よりも非常に
効率的な漁法であるので、時の領主からは多額納税者として可愛がられたものである。
明治となり幕府からの庇護がなくなって、鵜飼屋はさびれて石舟を業とする人もできた
山下家では他の鵜飼屋の面倒を見ねばならず、永年蓄積した品物と食料を物物交換して
目方のある米なぞは明七橋の欄干で休んで来た事もあったそうだ。
長良の橋は当初は船橋だったが明治7年に欄干のある橋が出来たそうだ。
国の保護を受けるべく努力した結果、長良川に御猟場を設け宮内省の漁を行う事とし、
鵜飼屋は宮内省式部職として御漁場のなかで漁ができるようになった。
長良川における鵜飼の歴史は古く、旧日本史の中で第10代崇神天皇の時、四道将軍
のなかで武淳川別の命がこの中部に来られたのに従ってきた鵜飼部が、木曾、長良、
揖斐の三大河川を擁し、数多い支流のあるこの地方は淡水魚の宝庫である、と考え
鵜飼部雌逗羅女が12羽の鵜を使った、と正倉院の御物のなかに記録がある。
それからはこの地方に鵜飼部が定着したのである。大阪夏の陣で勝利を得た徳川家康も
帰りに長良川で鵜飼を観覧して帰っている。
鵜を使って漁をすることは有史以前から行われていた。旧日本史によればウガヤフキア
エズノ命は出産を控えて産室の屋根を鵜の羽根で葺こうとしたが間に会わなかったから
この名前がついたと言われている。
又言葉の中にも鵜の毛で突いた程の隙もないとか、鵜の眼鷹の眼と言われたりして人と
の生活とは密接な関係があったと思われる。
神武御東征の折り、水先案内したのはヤタノ鴉と言われているが、之は鵜の間違いであ
ると言う一説もある。言葉の端端に鵜が使われている事から考えて見れば人と鵜の間
との密なることも思いしらされる訳である。
日本全国に鵜飼部が各所に居たが次第に低調となって、大日本史をかいた本居宣長の頃
「鵜飼舟 今は他には長良川 昔を見するかがり火の影」
の通り長良の鵜飼が一番盛んだったらしい。
1688年(元禄元年)松尾芭蕉が岐阜に遊び
「岐阜の荘 長良川の鵜飼とて 世に事ごと衆ののしり 実にやその興 人の語り伝うる
に違わず 浅智短才の筆にも言葉にも懸くべきにあらず 心知られん人に見せばやな」
と言いつつ帰るこの身の名残惜しさを、遺憾んせん
「 おもしろて やがてかなしき うふねかな」
のあの名句も、この折り作られたものである。
長い歴史のある鵜飼であるが、その為色色唄に歌はれているが最も古いのは赤染衛門
の歌である。
「夕闇に ともす鵜船のかがり火を 水なる月の影かとぞ見る」
山下克郎氏に竿の使い方をお願いしたら下鵜飼の時長良前に来るようにいわれた鵜舟を
漕ぎだして、納涼台まで漕ぎ上ったが汗だくだった。随分余分な力を使っていたらしい。
翌日から鵜飼の出発する迄に来るように言われ、山下家に行けば半ズボン、足半、法被、
ねじ鉢巻で鵜舟に乗るように言われ、初めての鵜舟とて喜び勇んで船上の人となった。
下りは何もやることが無いので、舟の中張でかがりの反対側に乗り受けるようにして乗って
下ってきた。海戸山から長良前まで鵜舟に乗っての鵜飼見物は素晴らしかった。
翌日から2羽の鵜をもって行けといわれ、魚が獲れた時は克郎氏に鵜を渡し吐かせてもらった。
鵜飼の本漁のときは船外機は使わないが、川の浅い瀬では竿を差して上るのである。
御漁場の瀬で足が滑って上半身を水中に突っ込んだ時、小縁で横腹を打ち身して息
が出来ない程だった。その時文さんに
「おいポンポン屋、一人前になったなぁ」
と冷やかされた。
御漁鵜飼で中鵜6羽使った時、僕の鵜がどんどん獲ってきて吐き籠がみるみる一杯に
なった事があった。何日か鵜飼に行ったが、そんな事は唯一回あっただけだった。
日野を下って来る時に全く魚がいないので、善平鵜匠と英語でコーモオラントフイッ
シングと言うが、その通りだと冗談言いながら下って来たこともあった。
鵜飼屋の習性で大きな鮎をくわえて来ると必ず「ドッコイ」と叫ぶ。そして二声目は
「オトスナ」。大きな鮎を郡上からの落ち鮎なので郡上落と呼んでいるこの文句で
一句出来ないかと考えたが上の句が出てこない。二年ばかりして郡上農林の同窓会
があった時、鈴木義秋先生に頼んだら、
「鵜を縛っている縄はなんと言うか」
と訊ねられ
「手縄と書いてタナワと言います。」と答えた。そこで先生の上の句を頂いて
「たなわ牽く ドッコイ落とすな 郡上落ち」
山下家の舟には色々な人が乗られた。毎日新聞の大石さん、画家の青木さんは一週間位
毎日乗られた。青木さんには鵜の絵を描いてもらった。
常陸の宮夫妻が鵜飼見物にこられた。翌朝毎日新聞にその写真が載っていた。よく見れば
僕が中鵜をひっぱって居るところである。大石さんに是非あのネガがほしいとお願い
したところ実はあの写真は失敗作だから、この次良いのを撮ってやろうといわれた。
その後オランダのアレキサンドラ王女が鵜飼見物の時、恐らく大石さんの耳打ちあって
僕のバックにアレキサンドラ王女を撮った四っ切りを送って貰った。
山下家の舟には3年は乗っている。その間鵜の取り扱いも色々教えてもらった。
善平氏の弟さんに「昇」さんが居られたが、鵜を扱わしたらこの人に勝つ人はいないと
克郎さんが言ってられたが1度だけ中鵜使いをされたのをみて流石と思った。
長良六軒の鵜飼屋は当日の廻し場に登り、スタートを待つ陽が繰れて鵜舟の準備が整うと、
籤引きが始まる前日の西前をひいた者が籤元となって籤紐で6個の円を作る。
艫乗りが各々輪に人指し指をつっこむ籤元は残った紐をねじる。そして2本残った紐の
何れかを引けば順番に指は外れて紐1本になってしまう。
順番が決まったら川の中央を「奥舟」といって東西に分ける。このように2番目も同様
3番目は「前舟」といって岸に近い川の端を漕ぎさがる。舟は悌形で川幅一杯使って
本漁をやってくるのである。そして一瀬下る毎にその順番を代わり、機会均等にして漁を
して来るのである。
「鵜かがりの 早瀬をすぐる 大炎上(白秋)」
WADA,Hiroyuki