おやじの蘊蓄
三味線との出会い
八幡で防空博覧会があった。芸者の手踊りのとき僕より1つ年下で芸者の娘で大高某が
「春雨」を踊った。その合いの手の三味が心地よく響き、一辺で邦楽党になった。
又、琴の音が好きで兵隊に行き戦死する前にしんみりと聴きたいと思った。
八幡で女の子に聞いて歩いたが誰独り琴を奏でる子はいなかった。
宿毛で終戦になり、琴の師匠さんが居ないかと探したが居なかった。
将校宿舎の隣は芸者置屋だった。芸者にそのことを尋ねたら三味線なら「春雨」を弾く娘がいた。
その娘に頼んで手ほどきをして貰った。毎日宿から通っていたら宿の主人が
「毎日何処にいくんか」
と言うのでその事を話したら宿にいい人が居るといって、知り合いで朝鮮の木哺から引き上げて
きた井堀と言うお婆さんを紹介してくれた。趣味で三味線や踊りを習い担能であった。
自分の娘雪江をつれて宿に泊まっていたのである。
1日1曲づつ1週間毎日朝8時頃から夜12時頃まで習った。
「春雨」「奴さん」「槍さび」「わしが国さ」「桑名の殿さん」などなど
11月28日高知県から復員してきて、学半ばだったので青木先生の所で保習授業を受けるべく
学校にいった。夜はすることがなかったので芸者の古手でお妾さんをしている人の所で
踊りと三味線を習った。
ホンダ農機のとき黒野の松井貞雄社長と小柳町で遊んでいて、元芸者の玉龍さんに会った。
彼女の紹介で六寿伊師匠に三味線を習うようになった。
温習会としてユカタ会を「かき松」の二階でやったが酒がまわって余興になったが誰一人
尻込みする人はいなかった。
何せ総員40数名のうち現役の芸者が25名、問屋町の奥さん4名、師匠さんや元芸者ばかりで
誠に賑わしかった。色々宴会をしたがこんな愉快な宴会は初めてであった。
WADA,Hiroyuki