おやじの蘊蓄

一酸化炭素中毒
    家のトラックにも木炭ガス発生装置が取り付けてあり、その準備は僕の仕事であった。
    ある朝、殆ど仕事が終わって歩こうとしたが、足があがらない。
    頭がフラフラして、物の見事に地上にペタンと倒れた。一酸化中毒に罹ったのである。
    地上をはいずって車庫の畳の部屋に行き、足を投げ出して横になっていた。
    一時間位経ったら治った。
    
    一酸化中毒の原因を調べた,血液中のヘモグロビンは酸素を運ぶ役柄であるが、一酸化炭素が
    入るとその仕事をやらなくなるので悪血が体内に回り、様々の傷害を来す。
    八幡小学校の新校舎の廊下に三六の黒板があったので、この事を書いて皆に知らせた。
    
    支那事変がはじまってガソリンの輸入が思うに任せず、ガソリンエンジンを持っている人は
    木炭ガスを利用する人が増えた。
    ろくろつくりの松井さん、叔父二三氏(吉田村で自動車エンジンで製材をしていた)の所へは
    小学生の僕が助手に行って、エンジンをかけてやった。
    小学6年生の夏休みは毎日渡辺ハスの手伝いに行っていた。
    八幡に帰った時、渡辺バスの社長渡辺五郎氏が営業用に使っているシボレーのハイヤーに
    乗ってきて
    
    「おい、坊!車に乗れ」
    
    と言われて喜んで乗ったら、八幡小学校の校庭に行って僕を運転台に乗せ自分は助手台に乗って
    
    「坊主、運転するやろ。運転してみろ」
    
    と僕に運転させた。走りながら
    
    「それっ牛がでた!!」
    
    等と言って ブレーキ操作を求めた。
    運動場をグルグル回っているときに職員室から大勢の先生方が見ていたことを覚えている。
    
    運転をしている僕は平気だったが、よくよく考えてみれば大したことをしていたのである。
    昭和11年に小学6年生が、たとへ校庭とはいえシボレーを単独運転するなんて、
    岐阜県では恐らく初めてであったろう。
    八幡小学校の高等科を卒業した春休みに、家のトラックV8フオードを持ち出して、
    同級生の原、井森等を乗せて小野温泉まで走った。運転して居る僕が外から見えないので
    郡上農林の生徒が
    
    「おい!運転手はおるんかい」
    
    と言っていた。
    高等農林1年生の時、加茂郡の牧野にあった農場へ学校のバスで行った。
    運転手に交渉して、帰りは僕が運転してきた勿論無免許運転である。
    歩兵第354連隊の連隊旗手になった時、第3大隊は四万十川の川口近くに駐屯していたので
    連隊本部とは離れていた。連隊長の足を探して宿毛の町を歩いていたら、ダットサンがほかって
    あった。尋ねたら憲兵隊のものであった。
    エンジンがかからんので放置してあるというので借りてきた。
    自動車整備の経験者を連れてきて、二人でエンジンを下ろしてオーバーホールをした。
    完調にして連隊長を乗せて各方面走り回った。運転手は勿論僕である。
    





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