おやじの蘊蓄

法螺貝のこと
    問屋街にシンガポールという会社があり、ここに地蔵尊の掛軸があった。
    900年も前に巨勢金岡という人が描いた国宝に指定されてもいい掛軸で、美術図鑑にも
    載っていた。
    
    松永修岳氏が四国八十八ケ参詣の折り養老山に我が姿を建立するようお告げがあり、建立を
    決意したのである。僕は設計を依頼されたが、地蔵尊が上手く描けないので岡崎の石屋さんの
    作った石蒿像があったので、これをモデルにして描いた。周囲を石柱で囲ったが、それに
    大小あったので松永氏がその本数を尋ねられた。平面図で数えたら大−10、小−54本で
    あった。私は何故数にこだわるのかと訊いたら、人間生まれてから死ぬまでに積む徳の数が
    54あり之を修正と言い、死んでから生まれ変わる迄に積む徳の数が54あり之を本有と言う。
    合わせて108なんです、と言われた。
    
    大垣市の商工会議所が主催で国分寺で柴灯護摩供養が行われたが、松永氏が主で作った
    菩薩修行道場で之を行うようになった。行者の中で7〜8人は法螺を立てる人はいたが僕は
    立てなかった。犬鳴山で手にいれた柴灯護摩の作法一切を覚えて皆を指導した。
    後松永氏が醍醐で修行している時、導師がいないので法螺貝でアカデミー章を貰い、45年に
    渉り法螺貝日本一の名手、本間龍演先生をおねがいして導師を努めて貰った。
    護摩供が終わってから宿に先生を尋ねて感想を聴いたら、皆一生懸命覚えてまあまあの成積
    だったが只一つ気に入らないことがあった。それは行者の法の切り方である。
    気合いが入っていない。10人位終われば交代を余儀なくされる筈であると言われ成る程と
    思った。鵜匠山下善平氏宅に御案内した時、本間先生の法螺を間近に聴いて聴き惚れて
    しまった。
    
    法螺を立てようと本間先生に教えを乞うとて山形に行った。
    なにしろ立螺秘巻の著者である先生に直接習ったのが僕の法螺である。
    一番立てたのは1年に1800回、特に印象あるのは律院で護摩堂建立の上棟式、
    平成5年3月31日この時比叡山からの僧侶の案内、平成5年10月23日の落慶法要の時、
    稚児行列の先導であった。他に信義山玉蔵院と大野町の来振寺における節分会も印象に残って
    いる。
    





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