おやじの蘊蓄
母のこと
明治34年4月18日、口明方村市島の吉田好太郎、志ゅうの長女として生まれた。
赤貧洗うが如き百姓家であった。耕作地は地主の所有であり、年年或る程度の小作料を払って
農業を営んでいた。
別記のように父は後妻の長男であり、正当な家系の一員とは見なされず、故に処女を嫁としては
迎える事は出来ない分律があった。しかし祖父建六さは和田家と比較すれば、長命の吉田家から
嫁を迎えたかったらしい。母は牧洞の或る家へ一応嫁入り(足いれ)して、父と結婚したので
ある。志ゅうお婆さんの話では母は直ぐに帰宅して、一晩も泊まって来なかったそうである。
過去帳を調べると、惣右衛門系では数多くの人が無くなっているが殆ど肺結核だったらしい。
母は17歳で父の許に嫁いできて、翌年18歳で長女友枝が生まれた。それから1年置きに出産
し44歳の春、捷二を生んで計13人でストップした。戦争中の生めよ増やせよの時代だった
ので、お上から表彰をうけた。
父は色々職を変えた。明宝の気良、口明方の吉田の発電所を作ったときに小鞠さんに師事し測量
を習得し、青写真を焼く事も知っていた。其の青写真の原紙に薬を塗るのにクエン酸鉄アンモン
を買ってこいと言われ何度も薬局に走らされたものだ。
父の影響で家にあった計算尺も五年生の頃に玩具として遊んでいて、其の原理も覚えたもんで
ある。
父は又古池自動車にいて自動車運転免許をとった。その頃明方街道は八幡から明山まで自動車
(乗用車)で人を運んでいた。結婚式があると花嫁はその乗用車で運ばれたが、座敷に座る順番
は村長、巡査、運転手の順序であったらしい。
こんな父に婚いた母は、金儲けは下手だし子供は多いし、大田内橋の家では酒の肴に豆腐を
作って売ったり菓子を売ったり色々苦労をしていたらしい。和田家と吉田家は、格は違っていて
も貧乏である事は変わらず、特に子育ては大変だったらしい。母はご飯を炊くことは下手で
あった。
よく甘酒を作って居たことを覚えている。子育てに忙しくてあまり他に気を使うことは苦手で
あったらしい。小学校五年生頃に成績が良かったので母から褒められた事があった。
この様な状態だったので姉二人と兄貴二人は高等科を出ると家業を継ぐか、就職したもんで
ある。中等学校へ行ったのは僕から下の兄弟姉妹だった。
母は体が丈夫で病気したことは覚えていない。母の口癖で好きなものを食べると
「全部身になってしまうようだ」と言っていた。又、母は独りで暮らしたいと言って市島の叔父
の家が空いていたので独りで住んでいたが80を越えた独りでは不用心だと兄貴が反対して家に
帰してしまった。
暫くして母は、足が悪くて歩行が困難となったので入院を余儀なくなってしまった。
妹映子の家に近い藤掛第一病院に入院したのが84歳の時であった。
少しぼけかけていたので、バイオアルゲンを20本買って1日に1本づつ飲ませるように看護婦
に頼んできた。少し経ってから甥の政昭が見舞いに行ったら、8年ぶりの再会にもかかわらず
いきなり名前を呼ばれたので吃驚したと言っていた。無くなる2日前に姉が見舞いに行った時、
看護婦が誰か判るかと訊いたら「一番上」と母は言っていたそうだ。
平成2年7月2日遂に帰らぬ人となった。享年91歳であった。
WADA,Hiroyuki