おやじの蘊蓄

    私の軍隊生活

    昭和19年7月25日、名古屋にて特別甲種幹部候補生の採用試験があった。当時僕 は戦時中の勤労動員による措置により学園を離れて船津営林署大留しゃく伐作業所に 勤務して毎日架線を張り林産物の搬出に尽力していた。この戦時下にてはいずれは徴 兵の結果軍人として招かれることは覚悟していたので、同じ軍人となるならば1日も 速くなろうと考え、この特別甲種幹部候補生を受験したのである。テストを終えて、 美濃町の姉の家に帰った父が病床にあり、明日をも知れない状況であったので、 翌26日に八幡の父の病床を見舞った。父がテストの結果について訪ねた。僕は結果 は不明であったが意を決して最大の嘘を父に伝えた。試験の結果は合格した、と。 父はそうか、家にも将校ができたなと喜んでくれた。すっかり衰弱した父に何か おいしい物をと思い、郡上農林を訪れ鈴木義秋先生にお願いして, 西瓜をわけて もらってきた。家に帰り、父の口中に入れてやると、「うまい、うまい」と美味し がって食べていた。また父は死期を悟り、辞世の句を残したいようであった。 極彩色の雲...とは聞こえたがそれ以外は聞き取れなかった。 夕方になったら美濃町より兄英夫がやってきた。卓二兄は南方のラバウル航空隊に 居ることは判っていたし、男が二人揃った形となって父も安堵したらしい。その夜 1時半頃に死出の旅路に立っていった。 師匠寺の浄因寺の和尚は出征しておてり女性が僧籍を得ていて父の葬儀に来てくれた が、女性の僧侶が読経するのを聴いて、支那の泣き女を思い出して笑いがこみ上げて きた。支那では死人が出ると近所に女性が集まってきてわーわー泣いてみせるそうだ。 葬式も終わり、再び前の勤務地(上宝村船津大留しゃく伐作業所)に戻った。 9月中旬だっただろうか、特甲幹の採用通知が来て10月10日豊橋にある陸軍第1 予備士官学校第3中隊第4区隊に入学すべく命令があった。 田舎育ちの母は乗物に弱く、10月9日に1日早く豊橋に向かってきたが、母は岐阜 駅まで送ってきてすっかり酔いしれて気の毒だった。10月9日他の者より早く 予備士官学校に着いた我々はその夕食の準備を行った。幸いなことに第3中隊のすぐ 北が炊事場であった。翌10月10日は全員入校の日である。前日入校の我々は一日 の長ありとのことで食事当番を行った。第3区隊と第4区隊の間に通路があり、我々 はこの通路を通って舎前舎後に行動するが、食事揚げを終わって僕が通路の所にいる と、炊事場から声があり、 「おい第3中隊、魚を持って行けよ」 僕は炊事場に至り直径1m20ぐらいの網に魚を貰ってきた。自分達の区隊の物かと 思い配分してしまった。食事が始まった。 区隊長も我々と共に食事すべく、我々の部屋で箸を取っていたがほんの一口食べた ぐらいの時に第3区隊長上田中尉がつかつかと来て、 「魚はあるか。第3区隊は無いぞ。」 この声を聞いた区隊長、さっと顔色が変わった, と ,すぐ箸を机上に叩き付け、 「今日の食事当番、区隊長室に来い」と言い残して区隊長室に行ってしまった。 やむを得ず食事担当の4人は区隊長室に行った。 「魚を上げたのは誰だ!」 僕は手を挙げた。つかつかと近寄った区隊長、 「品性下劣である!」 と言ってビンタ一つ見舞われた。 4人の区隊長の中で陸士出の区隊長は関屋中尉だけである。それだけ にプライドが あったらしい。それから暫くの間、皆に注意事項があった時徹底したか判別する為に、 「わかったか和田候補生!」と名指しで念を押されたものである。 名誉回復のために何とかして成績を良くしなくてはと思い悩んでいて年が明けた。 なにぶん、2等兵の経験がない我々は一般連隊の経験を踏むべく三重県の久居の連隊 に隊付勤務と称して10日間ぐらい生活した。豊橋に帰った候補生の中で、シラミを 湧かさぬ者は一人も居なかった。中隊全員がそれぞれの衣服を取りまとめて、浴場の 湯をチンチンに湧かして通称熱湯消毒を行った。シラミは1時的に下火になったが 2月初旬、再び猛威を発揮し、中隊は全滅に頻せんとしていた。 何しろ特甲幹が出来た理由は各地で負け戦が重なり、指導的役割を果たす指揮官が 不足しているために1日も早く指導者を養成する事にあった。候補生としての我々に 1日も早く素養を身につけるべく要求されたわけである。その頃よく言われた言葉に 指揮官は企図心が旺盛でなくてはならぬというのがあった。また指揮官は敵情を把握 し、それに基付いて次の作戦を考え、決心しなくてはならない。決心したならばその 目的を達成のため処置をすべきである。その為に、人員の確保ももちろん必要である と教えられていた。夜7時から10時までは自習室に於いてそれぞれ勉強する時間が 与えられていたので、その時間を利用すると同時にシラミ事件を解決しようと思った。 1番の理由は次の日は軍事教練でなく現地自活と称して百姓仕事であった。百姓仕事 の嫌いな僕はシラミ事件にかこつけてシラミ退治を考えたのである。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 1−敵情 1月中旬以来中隊に侵入せる敵は我が熱湯消毒戦法によりその攻撃は一時   頓挫するも、旺盛なる繁殖力をたのむ敵は、次第にその橋頭保を拡大し、中隊は   まさに全滅に頻せんとす。 2−指揮官決心 余は再び各個撃破による徹底せる熱湯消毒戦法をもってこれを撃滅 せんとす。 3−場所−舎前、各自衣服を梱包して舎前に並べる。  4−消毒は牽制逆順に行う。 5−人員は戦友組をもってあてる。                          月 日                              和 田 駆 退 長 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− この計画書を作成して区隊長に示したならば何か反応があると考えた。 「第4区隊和田候補生。〜の件により区隊長殿に用事があってまいりました。  入ってよくありますか」 と許可を受けたものであるがこの”〜の件”を省いて部屋に入った。区隊長の正面に 立って平常の口調を真似て読み上げた。和田駆退長と言いながら区隊長に差しだした ところ、それを見た区隊長がニッコリとした。 それを見た僕は、”よしきた!”と反応あったと思い消毒の準備をした。 消毒を終わってから残り湯で衣類を洗濯して物干場に干して、日方ぼっこしていたら 区隊が皆帰ってきた。まだまだ物足りないと思っていたが、自習室の僕の前席にいた 千葉君が非常に成績が優秀で同期生委員をやっていた。 彼は性格が温厚でエキサイトしないので色々な仕事を押しつけられ持って帰ってきた。 ある時同期生委員会の席上豊橋市内の志気沈滞しているから、豊橋予備士官学校で 市内の軍歌行進をして意気を揚げる計画を持ち帰ってきた。 僕は千葉君にその計画は僕が発てるからと言って、各中隊の経路を示した。 まず第3中隊は市内の一番繁華な所を赤で示し, あとは員数的に適当に道を決めた。 唯単に全校軍歌演習だけでは面白くない。何か変わった事をしてやろうと考えた。 第四区隊にはニックネームがついていた。留めおかまし大和魂、が好きな区隊長が ”留魂隊”とつけたのである。 自習時間のおわりに全員に提案し、越中褌4枚縫合して幟を作りこれに区隊長に 留魂隊と書いてもらい当日押したてて行こうかと考えた。 校内を1周りすると竿とか、ローフ゜だとか転がっていたので拾いあつめてきた。 軍歌行進の当日は全校集まるので僕は舎前に出て集合状況をチェックした。 80%位集まったところで区隊取締りに出発を指示した。 豊橋予備士官学校のなかで幟を立てて参加したのは第4区隊のみであった。 後日談であるが、当日幟に気づかれた校長閣下があの幟を立てているのは何処の中隊 かと聞かれ、第3中隊長・第4区隊長共に大いに面目を施したそうである。 勿論この種を播いたのは和田候補生であることは中隊長以下百も承知である。 まだまだいろいろあるがこう言った積み重ねで予備士における僕の見込みが よくなったことはゆうまでもない。 昭和20年6月10日、特甲幹第1期生は卒業した。卒業式が終わると全員に 見習士官を命ずの一言で、全員見習士官となり将校待遇である。 豊橋予備士官学校より約200名が四国の善通寺師管区に配属になりその輸送指揮官 は上田少尉であった。そして僕はその副官を命じられた。 副官は忙しい。汽車が止まる度に逃亡者はいないか、皆の健康状態はいいか、緊急な 用事はないか色々調査をして指揮官に報告しなくてはならない。 予備士官学校の成績は未だ判明してはいないが輸送指揮官の副官を任命されたことで 僕が豊橋から善通寺へ行った中では最右翼であることは皆が理解していた。 集団の我々は適当に分けられ、丸亀、松山、高知などに分散したが第3中隊の我々は 高知の連隊付になり高知に向かった。 高知に到着するや新設連隊の要員として一時高知の連隊に駐屯することになった。 毎日幡磨屋橋付近をうろうろした。6月25日頃土佐久礼に集合がかかった。 新設連隊は土佐久礼で編成されたのである。 説田見習士官(岐阜市伊奈波通り.出身)や僕は第7中隊付となった。 部下を初めてもった自分は先ず部下の健康のことを考えた。当時地方には薬は先ず 無かった。土佐久礼の町の薬局を何軒か回って意外に薬品が多いことを知り、 その購入を考えた。オキシフル、ヨードチンキ、風邪薬など持ち金をはたいて買い あさった。包帯とかいろいろあったが1メートルくらいの箱に一杯となった。 暫く経った時、僕を訪れた兵士があった。連隊の衛生隊の面々である。衛生隊として 土佐久礼の町の薬局を回り薬の調達を行ったところ殆どめぼしいものは眼鏡をかけた 見習士官が買い求めていったと聞き、眼鏡をかけた見習士官を探してきたというので ある。事情を聞いたら放ってもおけず大部分の薬を連隊衛生隊に譲ってやった。 土佐久礼を出て部隊は、土佐中村 宿毛方面に行軍を開始したが案の定、足まめを 作ったり腹痛の患者が出たりして手持ちの薬が大いに役たったことは言うまでもない。 我々第7中隊の駐屯地は土佐山田の小学校であった。見習士官は豊橋出身3名、 久留米出身1名であった。久留米からの見習士官の週番士官の勤務状態が不十分 だから模範を示してやれと僕が範を示すこととなった。 山田小学校は校庭から3メートル位の石垣の上に校舎があった。 部隊の宿舎は学校へ向かって左端に存在していたので、校舎のたっている石垣の左端 に立って起床を待っていた。中隊は起床時間となって「起床起床」の声と共に皆外に 出てきた。上着を着ながらゆっくり歩いていたので、石垣の角に立っていた僕は大声 を張り上げて 「朝っぱらから何をモタモタしているか!駆け足!!」 全員が駆け足で整列した。点呼をうける小隊以外は休め、と命令し中隊指揮班から 順次点呼を受けた。 毎日点検のテーマを作ってゆき、第1日目は爪の伸びかた、第2日目は服装の乱れ、 第3日目は褌の点検など検査を行った。土曜日になると全く文句のない姿で点呼を 終了したものである。 4人の見習士官の教育の担当を決めた。僕は前述のように最右翼であった為,既教育兵 の教育係になった。年齢は25歳以上で45歳位までであった。内地防衛では 匍匐前進をマスターした方が良いと思い校庭で匍匐前進, 即ち第1匍匐から第4匍匐 まで訓練した。終わってみれば全員が肘とか腕に傷を負ってしまい、演習にも ならなかった。翌日からは全員整列して歩調をとって校門を元気に出て行き 軍歌を歌いながら遠く離れた山中に案内した。 「整列するでもなく、組銃もせず、銃は適当に保持し、皆の姿勢は自由なままで  横になってもよし。ただし僕の声が明確に聞こえる範囲ないに居る様に」 と伝えた。そして軍の秘密文書,内容はテニアン、ペリリュー島、硫黄島の戦闘詳報を 読んで聞かせた。皆が知りたい軍の機密情報であるので、興味をもって耳を側立てて 聴いていた。夏の土佐である,暑さも厳しかったが自由な姿勢で日かげで皆休んでいる ようなものだ。戦闘詳報を読み終わって、整列して帰途についた。 校門の近くは軍歌演習しながら通り過ぎ、少し離れた所の川に集まった。全員素裸と なって体を洗わせ「集合」の号令で3分間以内に点呼を行うべく仕向けた。 時間内に出来ぬ者は再び裸となり、反復繰り返して全員揃うまで行った。この訓練は 1週間続けた。最終日は物の見事1点のそつなく出来たものである。 7月の初旬と思うが連隊本部から命令があり、僕に連隊旗手を命ずとのことであった。 第7中隊と別れて宿毛の連隊本部に移った。 7月7日頃と思うが、我々の部隊は新設部隊だから軍旗が授かる旨通達あり7月8日 に連隊長、護衛将校、旗手、護衛下士官4名が宿毛を出て東京に向かった。 勿論トラック便である。 高知市を通る時は、高知爆撃直後だったので各所から煙が上がっていた。 夜間、大歩危・小歩危を通るので7月とは言えトラックの荷台の上は寒かった。 1枚のシートを互いに引っ張りながら丸亀に向かって急いだ。途中阿波池田から道を 間違え川の江の方へいった。ウツラウツラとしていると、いきなり田植えしたばかりの 田圃に投げ出された。よく見ればトラックが田圃に横倒しになっているのである。 眼鏡をしていた僕は手さぐりで眼鏡を探して田圃の外に立った。 夜中の12時を廻った頃全員空腹なので腹拵えすべく近くの軍の施設を探した。 折良く兵器補給省があったので塀を乗り越えて中に入り、係官を叩き起こし事情を 話して先ず全員に食事を頼んだ。食事後直ちに高松に向かうべくトラックの手配を 頼み、車上の人となった。 高松の桟橋では我々は二等車に乗り宇品に向かった。宇品に着いたが岡山行きの列車 は無い。やむを得ず又トラックを調達して岡山に向かった。 岡山に着くや東京方面の列車がすぐ出るからといって無理矢理ねじこんだ。車中は 立ってゆくより仕方がなかった。我々の列車が大阪駅に着いたら直ぐ乗り換えだった。 この列車は途中の混雑を見越して半分は空席であった。兵隊さんはこっちに乗ってと 言われ、我々は楽に座席に座ることができた。 列車が岐阜に着く頃に帰途面会してよいかと連隊長に許可を貰い、葉書に13日昼頃 に岐阜駅で面会すべく書いて投函した。頼んだのは女子駅員だった。 我々の乗った列車は岡崎辺りで止まった。聞くところによれば目下岐阜が被爆中 とのことだった恐らく各務原でもやられているんだろうと思い、東京に向かった。 10日の昼頃東京の陸軍省に行ったが、なにぶん8日の夜中に食事したまま何も 食べていないので、皆腹をすかしていた。陸軍省の食堂に頼んで食事したが,なにせ 佐官級の胸に縄暖簾をさげた連中のサ中での食事であり、ホーホーの体で食事を 済ました。 その晩は近衛兵の兵舎で寝るようにいわれ,近衛2連隊の兵舎で寝たが部屋はガラガラ であった。 不用意にそこに床をとって休んだが、夜中に一辺で目が覚めてしまった。体の露出 しているところは全部南京虫にやられたのである。毒虫に弱い僕は体中ポンポンに 腫れて顔は目が細くなり見えにくい位だった。 翌日は軍旗拝受の練習だった。宮内省にいって拝受の行程に則り練習した。宿舎に 帰っても顔の腫れは引かなかった。 翌12日、我々13個連隊が次々に軍旗を拝受した。部屋は宮内省表拝謁の間で あった。中央の入り口の正面には、天皇陛下が鎮座ましましその後ろに侍従2名、 そして金屏風。 陛下の向かって左には阿南陸軍大臣、土肥原教育総監、何人かの縄暖簾の面々、右側 には公郷さんが10人位並んでいた。連隊長は陛下の正面に位置して、僕はその後ろ にいるので陛下のお顔は拝むことができなかった。 連隊長は前に進んで玉座に爪先が当たる迄近寄り、陛下より軍旗を戴く姿で之を受け 取って5歩下がってくる。僕は1歩右に寄り、1歩前に出ると連隊長と横一線になる。 そこでお互いに向かい合い、僕は連隊長から軍旗を受け取り腰に用意した受筒 に差し込んで、軍旗を奉持して正面に向きなおる。そこで陛下より御勅語を賜る。 「歩兵第354連隊のため軍旗一琉をさずく.....」 そして勅語は阿南陸軍大臣に渡される。連隊長と共に最敬礼する。軍旗を奉持して いる僕は軍旗の礼を行うが右腕一っぱい伸ばし軍隊の礼式礼「旗手は敬礼すべき者に 注目す」,のとおり陛下のお顔を穴があくほど見つめた。僕が先頭になって部屋を出て くるが、入口では僕は一歩右に寄って稍右で陛下の方を向き ,連隊長は中央に立って     陛下の方を向き、一礼して退出した 控室に到り先に軍旗を受けた連中と並んで終わるのを待った。 確か35個連隊が軍旗を受けた筈で、それぞれ檜の箱に格納して宮内省の差し回しの ハイヤーに乗った。 ハイヤーの中央部に軍旗を置き、運転手の後に連隊長、助手台に旗手、その後に 護衛将校が位置して車中の人となり護衛下士官四名はバスで坂下門から宮城を離れた、 軍旗の車は当時焼けていた今の南寄の前を通り進んだ。何処に向かうのかと 思っていたが、松の枝がかすれている丁度南画をみる景色の鉄の門を潜り鉄橋を 渡った。又何処に行くのかなと思っていると、この道は大きく左にUターンをした。 眼前に現れたのはなんと宮城のあの二重橋ではないか。之を渡る時に思わず誰か肉親 がこの姿を見ていててくれたらナ、と思った。 翌13日東京駅で列車に乗り帰途についた。 なにぶん一汽車88人乗れるところに28人乗っているだけでガラガラである。 そして入口両側には歩哨が立っている。その儘汽車は西に向かって走った。 兄貴との面会は出来るかと思い、陸軍省から至急官報で電報を打った。 「13日1時岐阜に着く。打ち合わせ有り」 列車がいよいよ岐阜に着いて「岐阜ー岐阜ー」と駅員の声。我々の乗った列車の窓 から長良川の堤防が見えた。9日の爆撃で岐阜は全滅していたのである。 伊奈波神社の付近は異常のないことを知り、説田見習士官の家は被害のなかったこと を帰ってから伝えた。 我々が乗車した汽車は京都発宇品行きが一番便利が良いので、この汽車に乗るべく 京都に到着した。しかし当該列車は京都駅で出発までに待時間があった。 僕以外の者はそれぞれ京都市内に遊びに出かけた。僕は酒コーヒーは好まず、市内に 遊びに行く気にもなれず、連隊長に駅に残りますといったら軍旗を警護しておれと 言われた。7個の軍旗は京都駅の西側にあった貴賓室の、玉座の前に置いて見張りを していた。誰一人としていない貴賓室にポツネンとしていることも策ないと 思いながら何か変わったことをしてやろうと、フト玉座に座ってやろうと思い 誰かに見つかれば当然不敬罪となる事は判っていたが他に誰も居ない事を確かめて 玉座に腰掛けた。恐らく天皇陛下の座られる玉座に腰掛ける奴は僕以外にはない だろうと思った。 京都を出た我々の列車は宇品を経由して高松に渡り土讃線にて土佐久礼に到った。 久礼からは再びトラック便にて宿毛に到着した。道路には連隊を始めとして在郷軍人、 国防婦人会、中学生、小学生等整列して迎えてくれた。海風が吹く最中で軍旗を奉持 して、約5キロ位歩いた。軍旗を奉持した旗手は速歩行進を余儀なくされ (膝を水平に迄上げて行進する)又軍旗が揺れない様に奉持しなくてはならず、 ポーカーフェイスで行動することは困難であった。しかしながら半分以上 気力で歩行した。連隊本部に帰り軍旗を箱に納めて連隊長に挨拶の敬礼した途端 ふらふらっとした。直後トイレに行ったら直った。 7月18日には第1回の軍旗祭が行われた。中学校庭に連隊を始め在郷軍人会、 国防婦人会、中学生、小学生等少なくとも3千人以上集った。連隊指揮官の号礼一下 「軍旗に対し奉り、捧げ銃!」 で全員の眼が一斉に軍旗に注目された。その軍旗を奉持している僕には、その気配が 感じられ実に痛感だった。 分列行進も終わり一通り軍旗祭の行事も終わってやれやれ帰途につけると思いきや、 連隊長が皆軍旗の近くに寄って良く拝めと言われたので,僕が奉持している軍旗の廻り に皆が寄って来るので、皆が参観の行事が終わるまで待った。勿論一点凝視した不動 の姿勢の儘である。終わってから帰途についたが、軍旗を奉持して台上に立ったのが 午前8時。帰途についたのが11時。即ち3時間立ち続けていた訳である。 和田家としては誠に名誉な事であるとして軍旗拝受の模様を詳細に書いて母に送った。 母はその手紙を市島の祖母に渡したらしい,祖母は非常に喜んで手紙を持ち歩き、 知人に見せびらかしていたらしい。孫が天皇陛下にお会いして軍旗を受け尚、あの 二重橋を宮内省のハイヤーで渡り、宮城から退出したことが心から嬉しかったらしい。 8月15日、終戦となり陛下の玉音が放送され戦いは終わった。 軍旗は焼却処分する事に決まり、中学校庭でお別れ会を行い、中学の北側の山に穴を 堀り、焼却した軍旗を埋めてしまった。受筒を残してやろうかと思ったが未練 がましいと感じて全部埋没してしまった。歩兵第三百五十四連隊は新設連隊であり、 連隊旗手は僕が初代であり末代で終わってしまった。焼却前に軍旗の写真を残した のがせめてもの記念であった。

    ←旗の中央に第三百五十四連隊と書いてあります。






WADA,Hiroyuki